大船立ち飲み鞠屋物語(5)
勘さんの話
徳さんと並んで初期の鞠屋をなにかとかばったり、もりあげたのが勘さんだった。小柄で面高でちょっと名脇役といった風情をた
たえている。噺家のように軽妙な話術に長け、店なかに上品な笑いをさそったものだ。
「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」とか「 」とかの地口の名手なのだ。
小唄をひとくさり披露したり、当意即妙の相槌をうったり、立ち飲みの本来のあるべき姿を徳さんとは違った手法でいつの間にか
みんながさとされている、といった按配だった。そう”きれいに飲む”という見本を示してけれたのが勘さんだった。
勘さんが体調をくずして、入院し手術をしたらしいという情報が流れたことがあった。みんなが心配をしてお見舞いにゆきたがっ
た。ママもむろんその先頭に立って八方手をつくして病院を調べ上げた。さあ、みんなでいこうというときになってはたと考えた。
大挙押しかけて、果たして勘さんはよろこぶであろうか。勘さんの生き方のスタイル、美意識、生活哲学にそれはなじまないので
はないか。ママは直感的にそう思ったという。
はたしてそのとうりであることが後日判明した。退院した勘さんがこっそりママに「お見舞いなんてはずかしくて、それから逃れる
ためにさらに別の病院に入院しなけりゃならないよ」と語ったそうだ。シャイのひと勘さんの面目躍如といったところだ。
大船立ち飲み鞠屋物語(4)
徳さんの話
「立ち飲みってえのは、安酒を喰らいさえできれば何をやってもいいというところではありませんよ。ねえ、みんなで楽しく飲む
場所なんだから、粋に飲まにゃなりません。ロンドンのダウンタウンのパブでもミラノのバールでもみんな和気藹々と生きている
ささやかな喜びを共に分かち合える場所としての存在価値を守りあっているもんです。日本だって江戸時代からそうだよ。うん。」
徳さんはこういった価値観でなにかと創業のはじめっからから場をしきってくれたものだった。行儀のわるい客がいるとその客が
バツが悪くならないようにたしなめたり、いさめたりする手口が抜群だった。
大きな商家の旦那然とした風格といい、会話の洒脱さといい、すぐにまわりのひとたちを魅了し、尊敬を集めた。
「酒屋のなかでいちばん難しいのが、立ち飲み屋さ。たがいに話をする、そのルールがえもいわれぬ間合いと絶妙な頃合を守らにゃ
ならないからね。他の客を不愉快にしちゃならない。これが最低線さ。」
「ここのママはまったくの素人で始めたから、なんとか間違いのないようにみんなで気を配ってあげなけゃあならないんだよ。つま
りみんなでこの店を育て上げるってことさ。」
ずいぶん経ってから、その徳さんに「ママ、もう立派に一人前になったなぁ。」といわれたときは嬉しかったとママは遠くを見る
目つきをした。
大船立ち飲み鞠屋物語(3)
トンちゃんの話
トンちゃんは、五十がらみの人柄のいい常連さんだった。みんなから好かれてトンちゃんがそこにいるだけで店のなかがなごやか
になるのだった。だからノンちゃんがお金がなさそうなときはみんなが「ノンちゃんに一杯あげてくれ」とおごるのが常だった。
鞠屋が大好きで、ママも大好きで、身障者の手当が入るといそいそと鞠屋にやってくるのだった。そんなときはいつもおごってく
れる仲間たちに一杯ずつおごり返すのだった。そしてママに甘えた声で天ぷらを5~6個テイクアウトで注文すると、大船駅のルミ
ネの屋上にいるホームレスたちのところへ持って行ってあげるのだった。ママもそんなノンちゃんをいつも慈しんでいた。
そのノンちゃんの加減が急に悪くなってしばらく入院しているという噂を聞くまもなくあっけなく死んだ。その知らせを聞いたと
き、ママは店の横の路地に飛び出していって号泣した。
そのあとノンちゃんのお兄さんとお姉さんが店に初めて来て、ママに語ったそうだ。
弟は病室でいつも鞠屋さんのことばかり話していました。「あ~ぁ、鞠屋に行きたいな~ぁ」弟をいろいろ気にかけていただき本
当にありがとうございました。弟は一度も結婚もできず、生涯一人ぼっちでしたが、最後は鞠屋さんと巡り合って幸せだったと申し
ておりました。鞠屋さんのご常連さんたちとのこころ温まる交流に加えてていただいて毎日張り合いに充ちた生活を送れたのだと
思います。
ママはいまでもノンちゃんの話になると涙ぐむ。
大船立ち飲み鞠屋物語(2)
店名のいわれ
「鞠屋」の命名の由来に興味をいだいたわたしは、ある日、ママ(常連客はみな女将をママと呼んでいたので、以後
この名称を使うこととする)にどうしてこの店名にしたのか聞いてみた。
すべてのお客さまにこころからの誠意をささげるイメージの象徴としてマリヤを思い浮かべたが、そのままではあまりにスト
レートすぎるので日本調に転調したのだそうである。
「あたし この名前が気に入っているんです」
物知りのお客さまからこんな話をされたことがあり、いっそう好きになりました。九州長崎地方では、隠れキリシタンたちは幕
府の目をそらすためマリヤさまのことを観音様と呼び、イエスさまを大日如輪と呼び習わしていたそうだが、ここ大船は有名な観
音像があるので、そのイメージと同調して二重にママのこころざしを表しているように思える・・・。
またあるお客さまは、次のような話をしてくださった。アメリカの作家ホーソンの「大きな石の顔」という作品がある。、アメリ
カの田舎町の崖に石の顔が彫られてあり、いつかその顔の救世主が住民たちがこころをつくして働いたならば彼らを救いにくるとい
う言い伝えがあった。ある信心ぶかい農夫がその人を待ち望みながら一心に働いて、やがて年老いて「ああ、その人はついに来なか
った」と落胆したとき、ふと見るとその農夫自身の顔こそ、あの石の顔に生き写しであった・・・。ママもいつかその農夫のように
なれたらいいね。
「だから あたしそうした話に背中を押されるようにしてお客さま第一をこころがけているんです」
以下にいくつかの鞠屋に関する挿話を紹介しよう。